1986年に新社会人になった。東京は、バブル景気前夜。東武東上線の上板橋から麹町まで地下鉄で通っていた。びっくりするくらい痩せていた。流行りのスーツも着ていた。当時のディスコになんかも行ったりしていた。
池袋から有楽町線に入ると窓の外は真っ暗。その当時は、スマホもあるわけないから、車窓に写る自分の顔を眺めているしかなかった。ひとことも声を交わすことなく。アパートに帰るのは、いつも夜中の11時をまわっていた。24時間働けますか!?働き方改革など誰も叫んではいない時代。体力だけでなんとか乗り切っていた。遊びに行く時間もなかった。
営業職というポジションにも悩んでいた。もっと自分にはできることがあると足掻いていた。上司の部長さんとは、よく喧嘩もした。問題発言も多くて、扱いにくい若手だった。いま思うと、若気の至りである。むくれるばかりの20代を過ごした。
動脈も、静脈も、波打つくらい血気盛んだった。ただ、理想と現実のズレに生じていた“こんなはずじゃなかった”という東京暮らしの老廃物は、溜まりに溜まった。浮腫むしかなかった。
日本のロックバンド「THE BLUE HEARTS」は、1987年にメジャーデビューをした。ボーカルである甲本ヒロトは、同い年。歌がへったくそで、人前でカラオケなんて嫌だったけど。リンダ♪リンダ♪だけは、カラオケで力一杯歌った。いつも髪の毛がドブネズミみたいに汗で濡れた。強い力を1つだけでいいから欲しかった。
人生をリセットしたいと思っていた。そこに福岡転勤の話が持ち上がった。のるしかなかった。東京から逃げた。あれから35年である。実質的な仕事は、完全にリセットされている。でもしかし、転勤の決意を外部のスタッフの方々に伝えたときに一様におっしゃってくれたことが、いまも心の支えになっている。
「おまえなら何処へ行っても大丈夫よ」
おかげさまで、なんとかなって来た。大丈夫だよと反対に伝えることもできるようになった。人間関係は、リセットできない。積もるものだ。土壌だ。ディスコで遊んだことより、外部のスタッフの皆さんがそろって転勤祝いをしてくださった新富町の夜を思い出す。人前で、声を出して泣いたのは、あの東京の夜が最後だ。
「僕はアナーキーが一番だと思うよ。でも、アナーキーには一つだけ条件があるの。それはね〈いい人であろう〉とすること。すごく漠然とだよ。漠然と〈いい人であろう〉という意志。漠然と〈優しくしよう〉っていう意志。その人の実力とか、その日の気分とかで出来ない時もあるけど、〈いい人でいたいなぁ〉〈優しくしたいなぁ〉と思う気持ち。それだけは持っておくことなんだ。〈人に迷惑をかけないようにしよう〉とかさ。それさえあればさ、あとはアナーキーでいいと思うの。自由でいいの。」
自由を叫ぶためには、真面目じゃなきゃいけないんだよ!!いい人じゃなきゃいけねぇんだよ!!甲本ヒロトは、こんなことを考えてリンダ♪リンダ♪を歌っていたのだ。
福岡に転勤して、結婚して、娘がふたり。その娘たちも、いつのまにか社会人となった。妙なプライドもなく、成功や名誉でもなく、“一番大切と思うものを全力で守って欲しい…”そんなメッセージをリンダ♪リンダ♪から読めるようになった。もう大きな声で歌うこともないけど・・・。
理想と現実は、ズレていて当たり前。そのズレを埋めるために、人生なんてものが営々と続くことがわかった。例えズレズレのままでも、もう大丈夫。あきらめるってこともこの身で覚えた。免疫機能が抜群にあがった。そもそも、ストレスもない。こんなものだと思えばこんなものだ。老廃物も溜まらない精神を手に入れた。もうむくれたりしない。意外と真面目に生きてきた。人に迷惑をかけない、いいオッさんになった。
「お父さんは、ギャンブルしているの?」
「競馬や競輪はしないけど、ときどきパチンコくらいはな。」
「パチンコっておもしろいの?」
「パチンコって落ち着くのよ」
「落ち着く?あんなに五月蝿いのに?」
「ひとりになれるやろ?そこがいいのよ。パチンコは、優しいのよ。お前には、まだわからんと思うけど」
「ふーん、優しいんだ?」
30代中盤で、我が娘の髪を風呂上がりにドライヤーで乾かしてあげることくらいのことが、ホントの幸せなんじゃないかと確信した。
リンパ♪リンパ♪
アラ還にもなると、自分の隠毛をドライヤーで乾かしながら、大きな声で歌いたくなる。幸せなドブネズミだな。
(おわり)
リンパとは、静脈とほぼ寄り添って張り巡らされたリンパ管と、リンパ液、リンパ節の総称です。体内の老廃物を回収して体をリセットする働きと、免疫の役割を担っています。
ストレスや疲れが原因でリンパの流れが悪くなると、老廃物が溜まり、むくみなどを引き起こします。