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あなたの声が聴こえない [第11回] 一人きりの水炊き

連絡がなくなって三日が経つ。

互いに仕事があるから、SNSでの断続的なやりとりではあったが、細見はこれまで可南に短いメッセージを日に数回は送ってくれていた。とくに食事の画像を送り合うのは、可南にとってのささやかな、しかし大切な楽しみとなっていた。

それが途絶えることが、こんなに悲しいなんて。細見と出会う以前は当たり前だった日常が、どこまでも空疎で味気なく感じられる。

食欲もない。乙女の恋煩いじゃあるまいし、と思いはするが、今日だってふと気づくと、何も食べないまま午後2時になっていた。思わずため息が出る。

「お素麺でも茹でますかね」

そう言って、キッチンへ向かう可南の脳裏に久しぶりに声が響いた。

〈だめだよ、ちゃんと食べないと。おいしいものへの貪欲さが、すなわち君なんだから〉

正(ただし)らしい言い回しだ。可南は「確かに」と声に出して小さく笑う。

〈今夜はさ、久しぶりに水炊きを食べに行こう。まあ、俺は口がないから食べられないけどね〉

「口がないのに、なぜ話せるの?」

軽口に付き合ってみる。

〈なんというか、これは形而上的な口なんだよ。つまりその意味では好物の水炊きを君と一緒に、形而上的に食べられるとも言えるね。ほら、いつもの個室を予約して〉

正の行きつけだった店に電話をかける。個室は2名からだが、女将は「可南先生だから特別に」と言ってくれた。

創業百年を超える老舗の店構えはさすがに風格があり、案内された部屋の窓からは夕陽にきらめく那珂川が見える。ほっと息をついたところに、女将が入ってくる。

「なんだか、向かいに正さんがいらっしゃらないのが不思議。もう何年になるかしら」

「ちょうど二年です」

「ああ、早いものね……なんて、私が感傷的になってどうするのって話よね」

二人はくすくすと笑った。可南にとっては三日ぶりのことだった。

正はコースではなく、いきなり水炊きから始めるのを好んだ。まずは創業から継ぎ足され続けているスープが供される。鶏ガラを十時間以上炊き込んだ白濁スープに、鶏のぶつ切りを柔らかく炊いた透明なスープを合わせて仕上げる。濃厚だがキレがよく、鶏スープ独特の香りが、あさつきのそれと見事に調和する。

〈いやあ、たまんないね。このかぐわしさ〉

正にそう言われて、可南は一気に空腹を感じた。熱い汁を一口。喉から胃に落ちて、さらに全身に広がるのを感じる。滋味とはこのことだ、と可南は思う。

〈そうそう、その笑顔こそ君だ。さあ、食べて、食べて〉

生後三カ月以内の、その日の朝に捌いた雄鶏だけを使うという鶏の身はやわらかく、箸を入れるだけでほろほろと骨から離れる。角のないポン酢醤油に軽くつけて、じっくりと炊き上げたからこその鶏の甘みをゆっくりと味わう。

〈可南、俺、なんだか帰れそうな気がしている〉

〈帰る? この世に? 幽霊になって?〉

いやいや、と正は笑う。

〈うまく説明できないんだけど、個を超えた、もう少し大きなグループというか……〉

〈それは魂の……〉

〈そうだな。その表現が一番近いと思う〉

〈じゃあ、もうあなたとは、こんなふうに会話できないの?〉

〈たぶん、俺個人とは……ただ、その魂のグループとは交信できるはず。というのも、君もそのグループの一員だから〉

〈私も?〉

〈そう。もっと言えば、彼も同じグループだ〉

正の言っているのが、細見であることは間違いなかった。

〈だから何というか、気兼ねしないでほしいんだ。君たちがパートナーとなって成長してくれれば、それは俺にとっても成長なんだよ。そのことがわかって、君に対する執着も、嫉妬心も、驚くくらいに消えた。だから、帰れそうな気がするんだ。つまり、この2年間は、俺にとっても準備期間だったんだよ。もちろん、君にとっては新しい恋に向かっていくための〉

〈さびしくないの?〉

〈さびしくない、と言えば嘘になる。でも、俺は消えてなくなるわけじゃないし、君を見守り続けることはできる。それはそれで、悪くない。ねえ、箸が止まってるよ。そろそろ雑炊を注文したら?〉

可南は「こんな大切な話をしているのに」とおかしくなって笑った。笑いながら、涙が止まらなくなった。

〈雑炊はさ、スープを継ぎ足してもらって、サラサラとお茶漬けくらいの感じにするのが旨いんだ〉

正の声も笑っていた。そして、同時に泣いていることが、可南にははっきりとわかった。

〈あなたの好みは知ってる。ほんの少しだけポン酢醤油を入れるのよね〉

しかし答えは返ってこなかった。〈ねえ〉と何度も念じる。声にも出した。しかし、答えは――二度と、返ってこなかった。